下記に掲載するのは、スマトラ島沖地震の津波で被災した人たちを、ブレインジムを使って支援した教育キネシオロジーのインストラクター、リー・アンさんが、後にその体験を振り返ってまとめたものを要約したものです。2004年12月26日の大地震と津波の後、シンガポールのブレインジム・インストラクター、リー・アンさんは、インドネシアの同僚でタッチ・フォー・ヘルス・インストラクターのヘンリーさんと共に現地に赴きました。二人はメダン市とバンダアチェ市の避難キャンプ地で、2005年1月~4月にわたって継続的に、現地の被災者のトラウマの解消と克服に尽力しました。
「アチェの人々は平和を見つけることができるのか?」
タン・リー・アン
戦争がないから平和だというのは、飢えや寒さで死んでいく人には何の価値もないし、近隣国の無分別な森林伐採による洪水で、愛する人々を失った人たちを慰めるものでもない。平和は人としての権利が尊重され、食料が行き渡り、個人と国が自由であるところにおいてのみ持続することができる。
アチェで出合った人々
●家族も家も、知っていたもの全てを失った中国人の男性。津波から一月経っても、ショックと苦しみで凍りついたまま、日焼けした顔からはまだ涙が流れ落ちていた。キャンプに いる他の何千人もの避難者同様にまんじりともできず、頭のなかではわずかな時間に起きたあの出来事が、止むことなく繰り返されていた。何が起きたのか話すこともできず、どう感じているのかも分からない。けれど彼の目は苦悩の計り知れない大きさを物語っている。
●メダンのキャンプにいた15歳くらいの女の子。いつも私の周りをうれしそうに付いてまわり、抱きついたり、手を握ったりして、私のことを「お姉さん」と呼んだ。顔は笑顔だけれど、目は別のことを語っていたように思う。彼女は津波で孤児となり、将来のこともおぼつかない。私がシンガポールに帰国する前日、彼女はくしゃくしゃの紙にインドネシア語で書いたメモを渡してよこした。キャンプ地を離れた後になって同僚が訳してくれた。「私の人生はみじめです。こんなに若いのに、私はこの先どうなるのか分かりません。私を一緒に連れて帰って。」
アチェの人々とその後
津波から一年が経って、アチェに向けられた報道陣の関心も他へと移り、医療チームもレポーターも立ち去りました。しかしアチェに平和が戻るのには、まだたくさんの問題が残されています。54万人以上の人たちがまだ住む家もありません。そのほとんどが生計手段を奪われ、収入がないために生活を立て直す希望がもてません。多くの人々が暮らすテントや、政府・救援組織の避難所は、生計を立てていた場所から遠くにあります。また事態を複雑にしているのは、水没したことにより土地の所有権が奪われたということです。
12地域にまたがる2000人以上のアチェの避難者に対する調査が行われ、食料の支援は90%、医療サービスは45%行き渡っていたものの、生計を立て直すための支援は4%止まりで、安定した収入源の確保や暮らしを立て直すための支援が最優先課題でした。
さらに私たちを現地で案内してくれたインドネシアの心理学教授によれば、数千人の人たちが今なお津波によるトラウマを体験し続けているということです。私が出合った数百人のアチェの人々も、多くが愛する人たちを亡くした記憶と、他に救う手立てがなかっただろうかという思いの中で、津波の瞬間を繰り返し追体験していました。
このような状況の中、大勢の人々との避難所生活にも関わらず、私たちが出会った多くのアチェの人々は、辛さを表に出さずに笑顔で、できるだけ普通に暮らそうとしていました。
津波と共に生きる
笑顔の背後にも、多くの人々が津波から5ヶ月が経ってなお毎夜の不眠症を訴え、中には頭痛、痛み、ガス腹、めまいなど、トラウマと関連した心因症の苦痛を患っている人たちもいました。また多くが将来への不安を抱え、失った全てに対する執着を手放せずにいる人たちもいました。深刻な場合は、水や高い所を恐れ、かすかな音に対しても異常な警戒心を示します。
私たちがここで行ったことは、人々に感情的ストレスを解放する自助ツールを教えたことです。つまり苦しい時に、その苦痛・苦悩から逃れて一休みできる自分で行える方法を伝えたのです。深刻なケースについては、1対1の個人セッションを持ちました。
トラウマは身体の痛み、頭痛、偏頭痛、一時的記憶喪失など様々な疾患として現れるため、中には自分の様態と津波の経験を関連づけることができない人たちもいます。
●40代の女性は津波から四ヶ月経って、毎日起きる頭痛と意識喪失に悩み、痛みを抑える薬を欲しがっていた。私は個人セッションにより、彼女の抱える問題が感情的なところにあると分かったので、疑わしそうな彼女に対して、感情の解放を行う幾つかのテクニックを使った。時間が経つごとに、三ヶ月続いていた痛みと一時的意識喪失が止んだ。彼女は亡くなった息子のことを考える時に意識喪失すると私に伝えてくれた。
●二回の訪問で何度も親しく過ごしながら、最後の日に至ってはじめて高所恐怖を抱えていたと知ることになった20代後半の女性がいる。彼女は建物の2階を越える高さの波に乗ってさらわれ、以来様々な恐怖症を患ってきた。地面から少しでも離れることができず、踏み台の上に乗ることなどもってのほかで、高台に立つのも不安。暗闇を恐れ、ささいな物音に驚き、周りを幽霊に囲まれているのではと想像する。45分間の個人セッションを経て、顔は目に見えて明るくなり、リラックスした表情になった。揺れるはしごの最上段にも援助なしに上ることができるようになった。
●最も深刻だったケースでは、回復へ向かうのに3回にわたる個人セッションを必要とした。20歳くらいの女性は、津波から一月経ってもリアルな幻覚に悩まされていた。その最中には、今も自分が水にさらわれており、誰にも助けを求められないでいると彼女は信じていた。またあたかも目の前で村人全員が流されていくのを見ることもあった。愛する人も 含め知り合い全員を亡くした彼女の場合、私たちは3時間をかけて、トラウマの経過をたどるように、過去から現在へと彼女が苦しみを経験するのを支えた。様々なテクニックを駆使して、ゆっくりと未来へと誘導しながら、過去のトラウマを解消していくと、恐怖のまなざしが消えた。彼女はようやく現在とつながっていられるようになったのだ。別の日に訪ねた時にも、もう過去へ戻ることはなかった。有り難いことに、彼女は一人の親類と出会うことができ、アチェに戻ることになった。
何度かにわたる訪問で、私たちは生存者、救護員、心理学者、学校の先生、子供たち、助産師の学生など、200名を越える人たちと関わることになりました。彼らにトラウマを解消するための簡単な自助テクニックを教え、自分たちの助けとするだけでなく、他の人たちにも伝えられるようにしたのです。
しかし私は自分の役割を果たしていくほどに、力の限界を感じて辛い思いをしました。現地には苦悩を抱える人たちが絶え間なかったからです。このような訪問が自分に与える負担や影響の大きさは心得ていたのですが、最初の訪問から戻った私は、自分が現地で見た人々と同様にまひした状態になりました。私は余りに多くの苦しみを感じ目の当たりにしました。脳裏には 出会った人々の顔が浮かび、耳は地震のニュースに釘付けになり、眠れず、次の訪問の計画を立てることもできなくなりました。そんな私が慰めを得て元気を回復することができたのは、シンガポールの同僚セラピストたちのやさしさと癒しのおかげでした。私は再び新たな訪問の準備ができ、自分の持てる力と能力を他者に貸すことができるようになりました。
アチェの人々が心に平和を取り戻すまでに、まだどのくらい時間がかかるのか分かりません。私はまた2006年2月に、次の訪問をすべく準備しています。